デザイン理念|On Making
最終更新2026.2.12
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◼️起点:制作の必然
capeeshの制作は、
「本物らしさ」や「可愛らしさ」を目指すことから始まるわけではありません。
それらは目標というよりも、
結果として近づいていくものだと受け止めています。
では、私たちは何を作っているのか。
どこへ向かおうとしているのか。
明確なゴールが最初からあるわけではなく、
作りながら考え、
考えながら作る。
歩いてきた道を振り返り、
その軌跡を地図のように描き直しながら、
「現在地」と「目的地」を探っていきます。
このページは、
完成された答えを示すためのものではありません。
制作の途中で立ち止まり、
どこへ向かおうとしているのかを確かめるための、
思考の記録であり、
いまの私たちにとっての小さな思想の保管庫です。
ときに考え直し、
ときに気づきを書き加えながら、
更新を重ねていきます。
道を見失わないために。
◼️現在地:存在の設計
capeeshの作品は、
「一般的なイメージ」「実物のリアリティ」「ぬいぐるみらしさ」
その三つの円が重なり合う、ごく小さな領域を探りながら形づくられています。
猫をはじめとする動物には、多くの人の中でどこか重なり合っているイメージがあります。
しかし、その姿は本物と完全に一致するわけでもなく、かといってキャラクターのような単純化とも異なります。
以下では、capeeshが一体を形づくる際に拠りどころとしている、三つの視点について記します。
⚫︎ 一般的なイメージ
ゾウは鼻が長いとか、シロクマは白いとか。
人が動物に抱く「らしさ」には、共有されている感覚があります。
それらは経験や記憶のなかで形成された、記号的な要素も含む集合的なイメージです。
猫なら、尖った耳、丸いマズル、柔軟な身体。
さらに言えば、「人にとって猫とはどんな存在か」という感覚も含まれます。
ただ、それを強調しすぎると、意図が前に出すぎてしまうことがあります。
説明的になりすぎると、見る人の想像の余白が狭まってしまうからです。
手根球(猫や犬の手首にある肉球)を例に考えてみます。
手根球は本物の猫には存在しますが、「猫らしさの象徴」として強く意識されることは多くありません。
実際、多くのキャラクター表現でも省略されがちな部位です。
capeeshにおいては、手根球(上図の小さなピンクの球体)は、「一般的なイメージ」の円には含めない要素として位置づけています。
⚫︎ 実物のリアリティ
本物の動物をじっくり観察し、その構造・表情・重心・毛並みの流れを作品に取り入れることは、存在感と生き物らしさの核となります。
ただし、博物学的にリアルを追いすぎると、到達点は剥製に近づいてしまいます。
また、くったりとした作品のまま極限までリアルに寄せると、生気を失った印象に近づいてしまう危うさもあります。
手根球は本物の猫に存在するため、この「リアリティ」の円に含まれます。
しかし、それをどこまで可視化するかは、作品全体の立ち位置との兼ね合いのなかで慎重に選び取っています。
⚫︎ ぬいぐるみらしさ
ぬいぐるみは、彫刻とは異なる存在です。
やわらかく、触れることを許容し、そこに在ることができる存在です。
そこには、形の正確さとは別の価値があります。
わずかな歪みや揺らぎが、かえって安心感につながることもあります。
その「不完全さ」は、欠点ではなく性質です。
ただ、可愛らしさを前面に出しすぎれば、それは単なるおもちゃやキャラクターへと近づいてしまいます。
capeeshが探っているのは、「可愛らしさ」に偏らない、静かな均衡です。
抱きしめて眠るためのやわらかさというより、
少し距離を保ちながら、長い時間のなかで静かに寄り添う存在。
その立ち位置を意識しています。
手根球は象徴性が高いとは言えないためか、手根球のあるぬいぐるみは極めて少ないようです。
その意味では、「ぬいぐるみらしさ」の円の外側に位置づけられる要素とも言えます。
「一般的なイメージ」「実物のリアリティ」「ぬいぐるみらしさ」。
これら三つが完全に重なり合う領域は、決して広くありません。
むしろ、ごく小さな、繊細な地点です。
しかし、その一点に触れたとき、作品は単なる“物”ではなく、ひとつの「存在」として輪郭を帯びるように感じられます。
さらにその領域に垂直の軸を重ねることで、
その小さな交点を立体的に捉えようとしています。
⚫︎ 物語性
capeeshの作品は、顔立ちやポーズに“静かな物語の気配”が宿るよう設計しています。
穏やかなやさしさ、落ち着いた佇まい、ふと見返したくなる表情。
それらはリアリティでも一般的なイメージでもなく、
「この子はどのように生きているように見えるか」という、解釈の余白の領域です。
物語性は、三つの円の中央から上方向に伸びる軸として存在し、
作品を彫刻的な個性のある存在へと浮かび上がらせます。
⚫︎ 触覚性
もう一つの核が、この触覚性です。
金属骨格の重み、ガラスペレットの流動、柔らかなファーの毛並み。
視覚では語りきれない身体感覚が、作品の生命感を支えています。
手にした瞬間の安定感、重心の落ち着き、膝に置いたときの静かな存在感。
それらは単なるリアリティではなく、触れたときにだけ立ち上がる彫刻的な体験です。
触覚性は、三つの円の中央から下方向に伸びる軸として機能し、
作品に体温を思わせるような重みを宿らせます。
3つの円と2つの軸が交わるところに、
ひとつの“存在”が立ち上がるような感覚があります。
それは、
かわいいだけでも、リアルだけでもない、
どこか“静かな生命”を思わせる佇まい。
生き物としての気配、
ふとした仕草の余韻、
手に抱いたときのわずかな体温。
それらが、ひとつの造形のなかで
過不足なく保たれるよう、
いまもなおバランスを探り続けています。
capeeshのデザイン理念の現在地は、
おそらくそのあたりにあるのだと思います。
◼️ 制作という層 ― 氷山の一角
capeeshの制作工程には、
完成した姿からはほとんど見えない作業が多く含まれています。
金属の骨格を部位ごとに組み、
その一本一本を布で包み、縫い留める。
外からは見えません。
完成時に、その工程が評価されることもありません。
けれど、その包まれたホネは、
作品の重みや重心、
触れたときのわずかな安定感を支えています。
ファーについても同様です。
白いファーで形を作り、
あとから吹き付けで着色する方法もあります。
構造的にも安定し、
効率や再現性の面でも優れた方法です。
けれど私たちは、
色ごとにファーを染め分け、
その一枚一枚を縫い合わせる方法を選んできました。
ベージュ、薄いベージュ、濃いベージュ。
ごく微妙な差でしかない色を、
あらかじめそれぞれの色として染め分け、
後から調整できない形で縫い留める。
完成した姿を見ても、
その違いははっきりとは分からないかもしれません。
色の差は微細で、
説明しなければ気づかれないことも多い。
労力に比して、
表に現れる効果は小さい。
それでも、この方法を選んでいます。
それは、見た目を派手にするためではなく、
技術を誇示するためでもありません。
造形を終えたあとに色を足すのではなく、
最初からその色であることを前提に、
形と色を同時に成立させるためです。
縫うという行為は、
あとから修正しにくい決断の積み重ねです。
それは制作における、
ひとつの責任のようなものかもしれません。
私たちは、
見た瞬間に分かる「差」を作るのではなく、
見続けても引っかからない状態を
少しずつ整えようとしています。
結果として、
作品は主張を強めるのではなく、
むしろ静かになっていきます。
氷山にたとえるなら、
見えている部分はほんのわずかです。
この数年で、
理想のぬいぐるみに近づこうとするなかで、
工程は少しずつ増えていきました。
見た目は大きく変わらないかもしれません。
けれど、触れたとき、置いたとき、
時間の中で向き合い続けたときに、
わずかな差が残るのではないか。
そう考えながら、
氷の下に沈む部分を
増やしてきました。
その選択が常に正解かどうかは、
まだ分かりません。
けれど少なくとも今は、
この方法でなければ
自分たちが納得できる一体に辿り着けない、
という感覚があります。
私たちはときどき考えます。
見えないなら、やらなくていいのか。
分からないなら、無意味なのか。
伝わらないなら、自己満足なのか。
確かに、表現を「目に見える差分」で測るなら、
この制作方法は効率の良い選択ではありません。
けれど、判断の基準を
他者の評価や即時的な効果だけに委ねてしまうとしたら、
自分自身の感覚はどこに置けばよいのか。
見えない工程は、
技術の誇示のためではなく、
自分たちがどの地点に立っていたいかという
小さな問いへの応答でもあります。
それは制作の方法であると同時に、
生き方の選び方にも
どこか近いものかもしれません。
見えない工程は、
作品の姿勢を整えるだけでなく、
私たち自身の姿勢を整える層でもあります。
そのように工程を重ねていくと、
作品は何かを主張するというより、
余計なものが少しずつ削がれていくように感じられます。
派手な効果を加えるのではなく、
意味を過剰に背負わせないよう整えていく。
その先に立ち現れるものは、
何かを説明する言葉よりも先に、
ただ静かにそこに在るという感覚です。
もしかすると私たちは、
仕上がりを強めようとしているのではなく、
何かの役割を背負わせる前の地点に
近づこうとしているのかもしれません。
その地点を、
いまはまだうまく定義できません。
けれど確かに、
そこに触れたいという感覚があります。
◼️ 役割を持たない存在へ
制作を続けるなかで、
いつの間にか、
幼な子の佇まいのようなものを
造形に取り入れるようになっていました。
頭部をわずかに大きくしたり、
手足やお尻の丸みを強調したり、
重心を少し低く落ち着かせたり。
それが意図的な設計だったのか、
感覚的な選択の積み重ねだったのかは、
いま振り返ってもはっきりとは分かりません。
ただ、なぜそうなっていったのかを考えると、
ひとつの仮説が浮かびます。
⚫︎幼な子の佇まい
幼な子には、
生きているという確かな存在感と、
まだ意味が確定していない曖昧さが同居しています。
何者であるかを説明せず、
役割を引き受ける前の状態で、
ただそこにいる。
私たちは、
その「説明されていない生命の姿勢」に
無意識のうちに惹かれていたのかもしれません。
幼児を模したいのではなく、
幼な子に見られる
役割が始まる前の静かな在り方を、
造形のなかで探っていたのではないか。
いまは、そのように受け止めています。
⚫︎可愛さの前にあるもの
仔猫や幼な子に対して、
人は自然に「可愛い」と感じます。
けれど、その感情の手前には、
もう少し言葉にしにくい層があるように感じられます。
壊してはいけないような感覚。
触れたいが、触れすぎてはいけない気配。
それは単なる愛玩の感情とは少し違う、
ためらいを含んだ親しさに近いものです。
私たちが目指しているのは
可愛さそのものというより、
その前にある、
まだ定義しきれない感覚なのかもしれません。
⚫︎役割を持つ生命/持たない生命
生命はやがて、
役割を持つようになります。
誰かの家族であり、
社会の一員であり、
何かのために存在していると
位置づけられる。
それは自然な流れです。
けれどその前に、
まだ何者でもない時間がある。
何かのために存在しているわけではなく、
期待にも応えず、
物語も背負っていない。
それでも確かに生きている。
私たちは、
その地点に近い姿を
無意識に探していたのかもしれません。
⚫︎未完成だが欠如ではない
「まだ役割を持たない」という状態は、
未熟さや不足を意味するものではありません。
それは途中段階というより、
それ自体でひとつの完結した時間。
足りないから守りたくなるのではなく、
すでに成立しているにもかかわらず
意味が固定されていないからこそ、
人はそこに余白を感じるのかもしれません。
その余白が、
私たちの作品にも
わずかに残っていればと願っています。
⚫︎三つの円と二つの軸の中心にあるもの
「一般的なイメージ」「実物のリアリティ」「ぬいぐるみらしさ」
三つの円が重なる点。
そこに「物語性」と「触覚性」という軸が交わる。
その中心地を考えるとき、
そこには幼な子そのものではなく、
幼な子に見られるような
役割を帯びる前の生命の気配が
あるのではないか、と感じています。
頭部の比率や重心の置き方といった
具体的な造形操作は、
その気配を保つための手がかりに過ぎません。
目指しているのは形ではなく、
その奥にある佇まいです。
⚫︎役割が生まれる直前の地点
役割は、
社会や物語や視線との関係のなかで生まれます。
けれど、その直前には
まだ何も引き受けていない状態がある。
見られていることを意識せず、
応答もせず、
ただ在る。
ぬいぐるみという存在は、
生き物でも物でもありきらないために、
その地点に比較的近い場所に
とどまれるのかもしれません。
私たちは、その可能性を信じて、
役割が始まる一歩手前の地点を
手探りで探しているところです。
もしかすると、
私たちが探しているのは
「猫」や「幼な子」という個別の存在ではなく、
それらがまだ分かれる前の、
より根源的な感覚なのかもしれません。
私たちはしばしば、
形を認識するよりも先に、
「〜である感じ」を受け取っているのではないか。
耳やマズルといった記号を確認する前に、
すでに全体の気配を知覚しているのではないか。
もしそうだとすれば、
役割を持たない地点とは、
その「感じ」にもっとも近い場所なのかもしれません。
ここから先は、
まだ十分に言葉にしきれていない領域です。
私たちは、その感覚を
仮に「イデア」と呼んでいます。
◼️目的地:どうぶつのイデア
では、capeeshの最終的な目的地はどこなのか。
作りながら進んではいるものの、
結局どこに向かっているのか。
捉えようとするとすり抜け、
言葉にしようとすると輪郭が曖昧になる。
それでも、次のような感覚があります。
石や、風に吹かれたレジ袋が、
ふと猫に見えてしまう瞬間があります。
それは錯覚でありながら、
同時にどこか確かな感覚でもあります。
「猫を通して猫を見たわけではないが、
確かに私は猫を見た」
というような体験。
私たちは、
尖った耳やマズルといった記号を確認して
猫だと判断しているのではなく、
「猫である感じ」を先に知っており、
それに合致する形を後から「猫」と呼んでいるのではないか。
もしそうであれば、
袋や石の先にある
「猫だと感じてしまう何か」は、
本物の猫の奥にあるものと
どこかでつながっているのかもしれません。
ここで言う「イデア」という言葉は、
プラトンの用法に近いようでいて、
同じものではありません。
それは抽象的な完成形というよりも、
個々の猫それぞれに宿っている、
まだ十分に言語化しきれていない感覚の層のようなものです。
capeeshは、
そのイデアに触れられるかもしれない形を
探し続けているのだと思います。
◼️現在地としてのデザイン理念
こうした思いから、
2026年よりコンセプトを改めました。
どうぶつのイデアを、ぬいぐるむ。
capeeshにとって制作とは、
ひとつの答えを提示することではありません。
むしろ、
どこへ向かっているのかを問い続ける行為そのものに
近いのかもしれません。
形にしては壊し、
わかったと思えば疑い、
また手を動かす。
その繰り返しのなかで、
ごくわずかに輪郭が浮かび上がる瞬間があります。
それが、
いま私たちが追いかけている
「つくることの中心」なのだと、
現時点では受け止めています。